郡和子のコラム

2006年07月14日(金)

じん肺、九州も勝訴

トンネルじん肺訴訟は、7日の東京地裁判決に続き、13日の熊本地裁判決も、国の責任を認める判決を出した。
しかも、国の責任を、東京地裁の1986年から認める判決よりも更に踏み込む1960年時点からとしている。救済の幅がぐっと広がることになる。

東北でも原告145人で現在裁判が行われており、9月にも仙台地裁で判決が言い渡される予定で、きっと、多くの東北の原告の皆さんが、心強く熊本地裁の判決を見たに違いない。

判決を聞かず亡くなった人もいる。家族のために仕事に精を出し、安全対策が講じられなかったばっかりに、命を縮め、苦しんで亡くなった人たち。そして、今、じん肺で苦しんでいる方々…。国にとっては重い判決だが、不作為を続けたことにより、患者を増やす結果になったのだ。控訴せず、具体的な対策を早急に講じるべきである。


2006年07月07日(金)

斎藤幸夫さんの訃報に接し

「死刑台から生還してまいりました」
宮城県松山町で1955年農家が全焼し焼け跡から一家4人が他殺体で見つかった、いわゆる「松山事件」の元死刑囚、斎藤幸夫さんが、84年に仙台地裁で再審無罪を勝ち取って、ようやく、支援者の前に姿を見せ放った最初の言葉だ。

その斎藤さんが4日、亡くなった。75歳だった。

母親のヒデさんが息子の無実を訴えた姿、来る日も来る日も、雨が降ろうが風が吹こうが、仙台の一番丁の交差点に立つ姿も、多くの人の記憶に残っていると思う。
そのヒデさんとひっそりと鹿島台町で暮らす斎藤さんを何度も訊ねた。

幸夫さんは、高齢になったヒデさんの介護をしながら、朝からお酒を飲んでることもあった。
体によくないのでは…と思いながら、私も、お酒のビンを持って幸夫さんを訪ねることがしばしばで、お酒が入ると、幸夫さんは、饒舌にいろんな話をしてくれたのだった。刑務所の中でのこと、死刑囚の恐怖、そして、ヒデさんのこと。
ヒデさんもまた、すでにお年寄りの仲間入りをしようという幸夫さんのことを子ども扱いし、二人で喧嘩もしょっちゅうだったが、伺うと、嬉しそうにしてくださった。
現実と夢とを行ったりきたりするヒデさんは、裁判に話が及ぶと「国民を犠牲にすることはあってはならない」とはっきりと話され、それを幸夫さんが「いいから、いいから、また始まった…」と、制することが度々だった。

幸夫さんの人生は何だったんだろう。
別件逮捕から自白を強要され犯人となり、長い裁判で死刑が確定。刑務所の死刑囚用独居房で毎日毎日死の恐怖を味わった。再審の扉がようやく開いて、やっと手にした無罪だったが、その後の人生も、周囲との折り合いが上手くつけられないことも多かったようで、幸夫さんは、晩年、引きこもりだった。

母親のヒデさんは施設に入ったと聞いていたが、幸夫さんの死をどんな思いで聞いたろう、あるいは、知らぬまま、かもしれない。

国家賠償訴訟、人生の取り返し裁判に、最高裁で敗れた2001年ごろからだろう、幸夫さんの酒量は増えていった。
酔うことしかできなくなって、元死刑囚、斎藤幸夫さんが、逝った。…悲しい。

ご冥福をお祈りする。


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