郡和子のコラム

2015年05月31日(日)

抑止力と安全保障のジレンマ

国会での安保法制の審議が連日行われています。

「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」と「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案」の2つの法案。

形式的には2本の法案ですが、実質は11本の法案を強引にまとめたもので、その論点は多岐にわたり、そのすべてが自衛官の皆さんをはじめとする人の命にかかわるものです。

これまでの政府見解を根底から覆した昨年7月1日の閣議決定による「新3要件」を踏まえて集団的自衛権の行使容認や、自衛隊による他国の軍隊への後方支援拡大などを盛り込み、無理やりに作られた感は否めません。

この間の国会での議論は、細部について、政府は、どんな場合に、何をやりたくて何をできないとしているのか、一つ一つ確認して、その問題点を浮き彫りにしています。

しかし、この議論は、安倍総理個人の強い思いで進めようとしているこの国の方向性と同じ方向を見ながら確認しているようにも取れ、皆さんに分かりにくく、そもそもの日本の安全保障の考え方、世界の中での日本の在り方についての議論が足りないとお感じの方もいらっしゃるかもしれません。

ところで「安全保障のジレンマ」という考え方があります。

自国の安全強化が他国(ライバル国)の不安を招き、他国もその不安から更に安全を強化、疑心暗鬼というのでしょうか、双方の関係は悪化し、結果として安全が損なわれることを言います。

第一次世界大戦がその典型であったとも言われています。

今回の、戦後日本の安全保障政策を大きく変える内容の最大の安倍政権の狙いは、新たな「日米防衛協力のための指針」(新指針)と併せて、軍事的に台頭する中国を念頭に「抑止力」を強化するという点です。

「抑止力」とは、力を背景に相手の意志や動機に影響を与えて攻撃を思いとどまらせる能力ですが、今後、それぞれが「安全保障のジレンマ」に追い込まれ、軍拡競争に入るリスクが伴うことも考えねばならない大きな論点です。

安倍総理は「抑止力はさらに高まり、日本が攻撃を受ける可能性は一層なくなっていく」と語りますが、この「抑止力」に関して具体論はなんら語りません。

今回の法整備の発端は、北朝鮮のミサイルや核問題、東シナ海や南シナ海での中国の拡張路線があるとして、軍拡に陥るリスクを減らすにはどうするのか、が、最も重要なテーマであって、これはコミュニケーションの積み重ね、信頼の醸成が必要であり、「外交力」がますます重要だという議論を怠ってはいけないと考えています。

現在の自衛隊の装備量や運用面から、日本が克服しなければならない課題は少なくないと私も思っていますが、では、アメリカが国防費を削減していく中、中長期的に、日本の防衛予算をどの程度増やさざるを得ないと考えているのかも、財政再建を目指す中、大い安倍さんに質したいことだと思います。

不都合な真実を隠したまま、安倍総理がアメリカで約束した「この夏までの成立」は、あまりに国会軽視、というより、国民軽視も甚だしいと言わざるを得ません。

日本が戦争に参加しないという世界に誇るブランドを変えることが、世界に、また日本にもたらす不利益を、冷静にそして徹底的に議論して、政府案成立阻止に全力を尽くします。

お力をお貸しください。


2015年05月03日(日)

憲法記念日に吉野作造を偲ぶ

日本国憲法の「平和主義」や「立憲主義」が根底から覆されようとしている中で、今年の憲法記念日を迎えました。

 

憲法が施行され68年、憲法とともに歩んだ戦後の歴史の重みを改めて噛み締めるために、今日は、大正デモクラシーの旗手、吉野作造について考えたいと思います。

 

先日、仙台で、宮城県が生んだ大正デモクラシーの旗手、吉野作造を研究する市民団体「吉野作造通信を発行する会」主催の講演会がありました。

 

「吉野とポツダム宣言」と題されたその講演は、終戦直前の1945年7月26日に連合軍が日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言の「軍国主義の除去」の条項に、吉野の反軍部思想が反映されているという興味深いものでした。

 

1922年に書かれた吉野の著書「二重政府と帷幄上奏(いあくじょうそう)」が、アメリカに留学中だった日本人武内辰治によって英訳され1935年にアメリカで出版され、それが大きな影響を及ぼしたというものです。

 

当時アメリカ大統領だったフランクリン・ルーズベルトは、日本との戦争が始まると同時に、敵国処理方針として、無条件降伏を前提とした戦後処理計画の立案を国務省に指示しました。

これを受けた国務省の特別調査部は、極東班という組織を作り、日本の戦後処理にいかなる方針で臨むか研究が始まります。

1945年初めには、日本の戦後政策の検討が本格化し、学界も巻き込むものとなり、学術団体太平洋問題調査会の国際会議も、連合軍の戦後の対日政策を検討する重要な会議に位置づけられました。

その1945年1月6日から17日まで開催された国際会議で、イギリスの王立国際問題研究所から「敗北した日本」という報告書が提出され、その中に、武内辰夫が1935年に英訳して紹介した吉野作造の「二重政府と帷幄上奏」が引用されていたのです。

 

その「二重政府と帷幄上奏」は、ポツダム宣言に盛り込まれることになります。

つまり、反軍・平和思想です。

 

ポツダム宣言受諾から今年70年。

 

「ポツダム宣言が日本に要求するところは、吉野先生が一日本人としてその祖国日本に対して要求せられたところにほかならぬ。…吉野先生が主張せられたものも民主政治の確立と平和国家の建設であった」と、1946年5月発行の雑誌「新生」で憲法学者の宮沢俊義氏が述べています。

 

吉野が国に対し主張して果たせなかった願いが、敗戦によるポツダム宣言受諾でかなったと宮沢氏が語っているようだと、「吉野作造通信を発行する会」を主宰する長澤汪恭事務局長が話されました。

 

2004年 、同じく憲法学者の原秀成氏は、国内はもとより海外のおびただしい資料を調査し「日本国憲法制定の系譜Ⅰー戦争終結まで」で、ポツダム宣言だけでなく、吉野作造の思想が、ひいては日本国憲法に反映されている系譜を解き明かしています。

平和・人権・民主主義の3大原理は、実は1920年前後の吉野作造の主張と、そして、20世紀の経験から得られた世界に誇る世界の思想でもあった、原氏は、そう言っています。

 

日本国憲法は、所謂「押しつけ憲法」だとする論がありますが、私は、「無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全及び正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力、及び勢力は、永久に除去せられざるべからず(しなければならない)。」というポツダム宣言第6項、「日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし。」の第10項、そのポツダム宣言の二つの基本的な流れを作った吉野作造の思想と、1920年代の自由民権運動が生きた憲法でもあった、そう改めて思うのです。

 

安倍総理が現行憲法を、GHQの素人がたった8日間で作り上げた「代物」と発言し、特定秘密保護法の制定、閣議決定による集団的自衛権の行使容認を行ったことは、あまりに独善的です。

立憲政治と民主主義に対する挑戦と言わざるをえません。

 

民主党は2005年、「憲法提言」をまとめています。現行憲法で補えない点を、憲法をより良く磨き上げて対応すべきであることを記しています。私たちが国民投票法の制定に主導的な役割を果たしたのも、そうした観点からでした。

 

しかし、今、安倍政権下で安倍総理主導の憲法を変える動きには、絶対に組できません。

 

改めて、郷土が生んだ吉野作造を偲びます。


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